ブルーノ・ガンツ

ブルーノ・ガンツ(Bruno Ganz, 1941年3月22日 - )は、スイス・チューリッヒ出身の俳優。ドイツ映画で活躍している。『ヒトラー 〜最期の12日間〜』でのアドルフ・ヒトラー役が有名。

父親はスイス人、母親はイタリア人。19歳ではじめての映画に出演。1972年にはザルツブルク音楽祭にてトーマス・ベルンハルトの作品を監督している。

2004年の『ヒトラー 〜最期の12日間〜』でアドルフ・ヒトラーを演じて高い評価を得た。公開前に「ドイツ人俳優がヒトラーを演じる」と言われたように、それまでは、映画においてドイツ語を話す俳優がヒトラーを演じたことはなく、あるいはドイツ映画でヒトラーが出てくる場合は、背景か非常に短いシーンのみであり、珍しいことであった。ガンツはドイツ系スイス人であるため、「ドイツ人俳優」と呼ぶのは正確ではないが、ただし、オーストリアを含め、ドイツ語圏は一般に同民族圏として捉えられているので、民族として「ドイツ人」と呼ぶニュアンスと考えることができる(そもそも元々オーストリア人であるヒトラーがドイツの国粋主義を指導したこと自体、こうした気分を背景にしている。ただし、イタリアや東欧などの少数民族ドイツ人も、スイス人やオーストリア人も、安易にドイツ人と呼ぶことは、人によって強い反発を招くケースも多々あるので要注意である)。

私生活では1965年に結婚、1972年に息子が誕生。現在はヴェネツィアやベルリンで暮らしている。

主な出演作品

  • 『アメリカの友人』 Der Amerikanische Freund (1977)
  • 『昼と夜のような黒と白』 Schwarz und weiß wie Tage und Nächte (1978)
  • 『ノスフェラトゥ』 Nosferatu: Phantom der Nacht (1978)
  • 『ベルリン・天使の詩』 Der Himmel über Berlin (1987)
  • 『春にして君を想う』 Börn náttúrunnar (1991)
  • 『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』 In weiter Ferne, so nah! (1993)
  • 『永遠と一日』 Mia aioniotita kai mia mera (1998)
  • 『ベニスで恋して』 Pane e tulipani (2000)
  • 『クライシス・オブ・アメリカ』 The Manchurian Candidate (2004)
  • 『ヒトラー 〜最期の12日間〜』 Der Untergang (2004)
  • 『バルトの楽園』 (2006)
  • 『コッポラの胡蝶の夢』 (2007)
  • 『愛を読むひと』 The Reader (2008)
  • 『バーダー・マインホフ/理想の果てに』 Der Baader Meinhof Komplex (2008)

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ブルーノ (アーサー王物語)

ブルーノ卿(Sir Breunor)は、アーサー王物語に登場する円卓の騎士。ブルーノ・ル・ノワール(Breunor le noir)が本名だが、むしろラ・コート・マル・タイユ(だぶだぶのコート、不恰好なコート)の名前の方で有名。身の丈に合わない父の形見のコートを着ており、仇を討つまでコートを着直さないことを誓っていた。ディナダン卿の弟でもある。

概要

ブルーノは、『散文のトリスタン』や『アーサー王の死』などに断片的な活躍が描かれている。彼の物語は、典型的に「フェア・アンノウンの物語」であり、特にボーメン(美しい手)ことガレス卿との物語にかなりの部分が共通している。

『アーサー王の死』では、体に全くあっていないコートを着てアーサー王の宮廷にやってきるシーンが初登場。そのため、ケイ卿から「ラ・コート・マル・タイユ」(だぶだぶのコートを着た男)とのあだ名を付けられる。グィネヴィア王妃を襲ってきたライオンを、たった一人で撃退したことから騎士に任命される。

黒い盾の冒険

騎士に任命された日、マラディザンド(Maladisant、フランス語で、罵る者の意味)という乙女がアーサー王の宮廷に「黒い楯の冒険」に挑戦する騎士を求めてやって来た。これにたいし、ラ・コート・マル・タイユが名乗り出たのだが、乙女は「だぶだぶの、不恰好にコートを着た男」などという名前を名乗った若者に対し不満を覚え、口汚く罵倒する。

それでもラ・コート・マル・タイユは乙女と冒険の旅に出るのだが、途中、何人かの騎士に決闘を挑まれる。道化のダゴネット卿のみには勝ったものの、ラ・コート・マル・タイユは他の騎士には負け続けるので、「あなたは道化役以外には勝てないのか」と罵倒され続ける。

しかし、負け続けたがラ・コート・マル・タイユは決して弱いわけではない。ラ・コート・マル・タイユは馬術こそ未熟であり、よく落馬させられたが、徒歩での戦いにおいてはかなりの武勇を発揮し、たびたび相手の騎士を打ち負かした。これについて、途中から旅に同行したモードレッド卿[1]が「馬術は一朝一夕には身につかないもので、ランスロット卿すら最初はよく落馬していたが若い頃から徒歩の戦いになると強かった。徒歩の戦いとなれば、若い騎士が熟練の騎士を打ち負かすことは珍しいことでなく、それゆえ熟練の騎士は徒歩の戦いを拒否するからラ・コート・マル・タイユが今まで活躍できなかったに過ぎない」とマラディサンドに説明している。しかし、これで乙女がラ・コート・マル・タイユに尊敬の念を覚えるかといえばそうでもなく、相変わらず罵倒し続けたのである。

それから、モードレッド卿と入れ違いにランスロット卿が「黒い楯の冒険」に途中参加。ペンドラゴン城での戦いでラ・コート・マル・タイユは六対一の戦いに敗れて囚人になるものの、最終的にはランスロット卿の活躍でラ・コート・マル・タイユとマラディサンドは釈放された。

こうして、冒険を終えたラ・コート・マル・タイユらはアーサー王の宮廷へ帰還。ラ・コート・マル・タイユは円卓の騎士に叙任されるとともに、ランスロット卿によりペンドラゴン城の主に任命される。さらに、マラディサンドと結婚も果たす。もともと、マサディサンドがラ・コート・マル・タイユを罵倒していたのは、歳若い彼に冒険を諦めさせ、命を守るためであったことが明かされたからである。これを聞いたランスロット卿により、乙女はマラディサンドを改め、ビアンペサント(Bienpensant、フランス語で、よく考えるの意味)とあだ名を改名した。

その後

マロリー版によればこのあと、ラ・コート・マル・タイユは見事に父の敵討ちも達成したとのことであるが、マロリー版では詳しいことは語られていない。

脚注

  1. モードレッド卿は、物語において悪役と相場が決まっているのであるが、この場面では珍しく優れた騎士として振舞っている。

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ケルン大司教ブルーノ

ケルン大司教ブルーノまたはケルンのブルーノ司教(925年 - 965年)はドイツのケルン大司教(在位:953年‐965年)またロートリンゲン公(954年から)。ドイツ王・神聖ローマ皇帝オットー1世の末弟にあたる。カトリック教会では聖人、記念日は10月11日。

生涯と治績

ブルーノは東フランク王ハインリヒとその2番目の妻リンゲルハイムのマティルデの末子にあたる。すでにブルーノが年少の頃から、彼が聖職に就くことは決められており、ブルーノはそのことを前提に入念に育てられた。951年、兄オットーはブルーノを宮廷礼拝堂の首席聖職者に任じた。

ブルーノの栄進はこれに留まらず、953年ケルン大司教に28歳で任じられる。ロートリンゲン公でオットーの女婿にあたるコンラート赤公がオットーへの叛乱に加担し、そのためにケルン大司教位が空位となっていた。オットーはブルーノをこれに任じることで、コンラート側に対抗する強力な味方を得た。ロートリンゲン公領はその大部分がケルン大司教区に属していたのである。翌年、叛乱が瓦解に帰すと、オットーはコンラートの公位を廃し、かわってブルーノをロートリンゲン公とした。

ブルーノはロートリンゲン公領全体を領したほとんど最後のロートリンゲン公となった。959年、2人の地方領主ゴドフロワとフレデリックがそれぞれ辺境伯として上ロートリンゲンと下ロートリンゲンに任じられた。ブルーノの死後、上ロートリンゲン辺境伯と下ロートリンゲン辺境伯はそれぞれ公に昇格した。分割されたロートリンゲンは1033年から1044年の間だけ、ゴテロン1世のもとで統一された。

大司教と公爵(ブルーノの伝記作家であるルオツガーによれば「大公」)という聖俗権力をあわせもつ立場にあって、ブルーノはオットーに次ぐ権力者となり、その影響はドイツのみならず国外にも及んだ。954年に西フランク王ルイ4世とその臣下で最大の勢力を誇ったユーグ大公が相次いで亡くなると、ブルーノは、双方の義理の兄弟、かつ、それぞれの後継者である新王ロテールとユーグ・カペーの伯父として、西フランク王国の摂政役を務めた。

961年以降、ブルーノはオットーがイタリア遠征を行い不在であるときの摂政に任じられた。

ブルーノはランスで965年に死亡し、自身の創建になるケルンの聖パンタレイン修道院に葬られた。

ケルン大司教としてのブルーノ

ケルンでのブルーノの地位はほとんど王侯に比すものであった。教会諸侯としてのケルン大司教領の基礎はこの時期に確立した。オットーはブルーノとその後継者に対し、通常は王の特権とされるさまざまな権威を与えた。砦の建造、市場の設置、貨幣の鋳造、ユダヤ人への保護と引き換えに徴収される特別税や市場での取引、ライン川沿いの関所などからの税を含むさまざまな徴税権などである。3世紀後のヴォーリンゲンの戦いまで、ケルン大司教は聖俗双方の支配者としてこの地方に君臨したのである。

ケルンにおけるブルーノの大司教宮廷は、この時代におけるドイツの知的・芸術的中心地となった。対して皇帝であるオットーの宮廷は、そのような文化的空気に乏しく、より軍事的色彩を帯びていた。この時期のケルンを中心とした文化活動はときに「オットー・ルネサンス」と呼ばれる。ケルンのブルーノの宮廷からは、次代のドイツの教会の指導者たちが多く輩出された。

中世のケルンに対するブルーノの影響は甚大である。ケルン大司教宮殿の造営に加え、ブルーノはケルン大聖堂をローマのサン・ピエトロ大聖堂(このときの聖堂は1248年に消失し、立て替えられて現在に至る)に比肩するまでに拡張した。またブルーノは古いローマ時代の城壁とライン川に挟まれた区域を要塞化し、3つの教会堂を建立した。先述の地区にトゥールのマルティヌスに捧げる聖堂、北側の市壁の外に使徒アンドレに捧げる聖堂、また市の郊外南西には聖パンタレインに捧げたベネディクト会の修道院である。

ブルーノはトロワから聖パトロクルスの聖遺物を移し、964年ゾーストのパトロクロス大聖堂(St Patrokli Dom)に埋葬した。今日も聖パトロクルスはその場所で崇敬されている。

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